【川崎市環境総合研究所職員コラム】ナッジ理論と環境施策

令和3年2月1日 

事業推進課(国際連携・研究推進担当) 

吉田 哲郎 

 皆さん、ナッジ理論をご存じでしょうか。英語でナッジ(nudge)とは、軽く後押しするといった意味で、簡単に言うと、軽く押すような小さな工夫で人の行動をより良い方向に変えることが出来るという理論です。アメリカの経済学者セイラ―教授と法学者であるサンスティーン教授とにより提唱された理論で、二人は、この理論により2017年にノーベル経済学賞を受賞しています。
 ナッジ理論の有名な事例としてよく挙げられるのが、オランダのスキポール空港にある蠅の絵が書いてある小便器があります。私も実際に見たことがありますが、当時はナッジ理論を適用したものとは知らずになんだか悪趣味なデザインだなと思った記憶があります。しかし、この蠅のデザインにより、男性が無意識にこの蠅を目がけて用を足すことにより、小便器の周辺の飛び散る汚れが80%も減ったということです。
 人間には、意識的、無意識的に行う行動がありますが、ナッジ理論は、人が無意識にとる行動を簡単な工夫で変えていくという理論です。従来の経済学では、人は常に合理的に行動するということが前提とされていましたが、実際、私達は常にそこまで合理的な行動を取る訳ではなく、ナッジ理論ではより現実に寄せて、人間は非合理的な行動をするという前提で論が展開されていることが画期的です。

スキポール空港の蠅の絵の描いてある小便器
(画像引用元:Nudging; how to trick people into doing the right thing)

 ナッジ理論は、環境や保健、防災、防犯などあらゆる分野で実践されています。例えば、ヨーロッパや北米で採用されたナッジ事例として、思わず使ってしまう階段があります。これも色々なバージョンがあるのですが、例えば階段がピアノの鍵盤になっていて音が出たり、階段を使った際のカロリー消費が示されたり、階段が陸上トラックのようになっていたり、といったものがあります。こうした施策は、英語ではゲーミフィケーション(ゲーム化)と言われています。ゲームの要素を取り入れ、階段を使うことを楽しくすることによって、使用を促すというアイディアです。より多くの人々が階段を使うことによって健康増進につながります(市民の健康が増進されれば、医療費が削減できます)。人々が無意識に、より良い選択をしているという状態へ促すのがナッジなのです。その他にもセルフサービスの大学のカフェテリアで一番目に付きやすい所にサラダを置くと、サラダを買う学生が増えたりするのもナッジ施策と言えるでしょう。逆にスーパーマーケットのレジ近くに甘いお菓子を置くと買う人が増えるので、ビジネスとしては良いのかも知れませんが、砂糖の取り過ぎが身体に悪いことを考えるとあまり良いナッジではないかも知れません。良い行動につながるものをナッジと言い、悪い行動につながるものは、ナッジとは呼ばず、スラッジ(sludge;英語で汚泥の意)と呼び区別することもあります。

ストックホルムの音の出る階段
(画像引用元:The 7 Most Creative Examples of Habit-Changing Nudges)
階段を陸上トラックに見立てたハンブルグの地下鉄
(画像引用元:The 7 Most Creative Examples of Habit-Changing Nudges)

 今まで環境政策の手法と言えば、規制的(法律や規制等)、経済的(補助金や税金等)、情報的(パンフレットやポスター等)なものがほとんどでした。しかしやはり誰でも規則が増えて行動や選択が制限されるのは嫌ですし、補助金が増えるのは良いとしても課税されるのも嫌でしょう。こうしたことから、規制的、経済的な施策は市民の反発を受ける可能性も大きく、行政としても導入するハードルが高いと言えます。情報的施策はどうかというと、行政によるパンフレットやポスターは巷には溢れていますが、一部の人たちには響いても多くの人にはあまりメッセージが届かないということがよく指摘されます。ナッジ施策は、単独で実施されることもありますが、上記の手法を補完する形で実施されることが現実的でしょう。
 ナッジ施策は、規制、課税する訳でもなく、自然と自主的に人々の行動が変わるという点で近年、かなり注目されています。海外では、イギリスが2010年に内閣府にナッジのチームを設置したのを皮切りに、アメリカは2015年にやはり同様の部署を設置しています。日本国内では、少し遅れて2017年に、ナッジ施策を検討する日本版ナッジ・ユニットが環境省を事務局として発足し、2019年には、横浜市や尼崎市などの地方自治体でもナッジ・ユニットが設置されています。こうしたユニットは、職員の有志で始められることも多く、部署横断的に自主的に簡単な工夫から取組を始めており、次々と取組は増えてきているようです。
 まずナッジを使って解決したい問題を見つけたら、どうしてその問題が起こるのか、人々の行動を観察、分析することが必要です。その行動が悪いと認識しつつしているのか、それとも無意識でしているのか、悪いと認識しているが、やめられない習慣なのか等。例えばタバコのポイ捨ては恐らくほとんどの人が悪いことと認識しつつ、面倒くさいから捨てていると考えられます。
 ナッジ理論では、望ましい行動を可能な限り簡単にする環境を整備し、その行動を阻む障害となるものを取り除くことが基本とされています。逆に言うと、望ましくない行動のハードルを上げるということになります。人間は本来面倒くさがりであり、楽な方向に流れてしまう性質があるものです。解決策が少しでも面倒くさく、努力が必要であると、人は必要な行動を取らなくなる傾向があります。例えばごみのポイ捨てが問題なのであれば、どうしてポイ捨てをしてしまうのかを考えると、ごみ箱が近くに見つからない、ごみを持ち歩きたくない、みんなポイ捨てしている、ポイ捨てしてもばれないなどという背景があり、個人レベルで最も楽な行動がポイ捨てをすることであることが分かってきます。アマゾンはワンクリック注文により、購入のハードルを究極まで下げ、売り上げを増やしました。
 ポイ捨てが多い場所に小さな鳥居やお地蔵さんを置くことでごみが捨てにくくなり、ポイ捨ての量が減ったという事例が報告されています。これはポイ捨てのハードルを上げた例です。ごみ捨てを楽しくするという観点から、ごみ箱にごみを捨てるとヒュー、ストンと何メートルも下にごみが落ちたような音が鳴るごみ箱もスウェーデン等で設置されています。ごみ箱の場所を示し、導く足跡を付けたり、ごみ袋を透明にして、ごみの中身が見えるようにするのも他人の目による社会的圧力を生み出し、望ましい行動を促すと考えられます。
 こうしたナッジ施策の優良事例は、世界に数多くありますが、欧州でうまくいったものが、そのまま日本でうまくいくとは限らないので、そうした事例を参考にしつつも、地域のコンテクストにあったナッジ施策を自分たちで考えて作る必要があります。またナッジは、あくまで簡単な工夫であり、高度で洗練された技術を活用するという類のものではありません。また中には劇的な行動変容をもたらすナッジ施策もありますが、通常のナッジ施策は、そこまで急激な変化をもたらす訳ではないということも認識しておく必要があるでしょう。セイラ―教授の本やOECDが発表したレポート等では、機能するナッジ施策の原則を挙げていますので、あくまでそれらを参考に自分たちの施策を考えていくというのが良いかと思います。1つのダイエット方法が全ての人に効果をもたらす訳ではないのと同じです。皆さんもぜひご自身の職場や家庭で望ましい行動変容を促すナッジ施策を考えていただければと思います。


  • リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン著(2009)「実践 行動経済学」
  • 経済協力開発機構(OECD)編著(2019)「行動変容を促すインサイト」

  •  なお、本コラムは筆者の個人的見解に基づいて書かれたものであり、必ずしも当所の見解、意見等を示すものではありません。
  •  また、これまでに配信したコラムはこちらでご覧になれます。